― 燃暁 ―
 空漠たる広大な草原は、異様な静謐さに包まれていた。  吐き出す息が、白濁した靄となって大気に溶けてゆく。重い冷気が執拗に身体にまとわりつき、不意に起こった微風が、剥き出しの頬と耳朶を薙いでいった。  晩秋の黎明を迎えんとする東の空では、今や紺と朱の鬩ぎ合いが繰り広げられている。その光景は、些かの雑音さえ許されぬような美しさと厳粛さを秘めていた。  俺は特に意図せずに、夜通し動かし続けていた足を停止させる。そして、凍てつきそうなほどに冷え切った空気の侵入で肺が軋むのにも頓着せず、深く溜息を吐いた。  昨夜の戦闘による疲労は、この時点でもう殆ど皆無と言えた。だが、一睡もせずに歩き続けていただけあって、やはりどこか気だるいような感覚が身体に居座っている。こんな状態でも意識が明瞭だということは、まさに僥倖――今後の戦闘に異常を来すようなことはなさそうだ。  俺は、ゆっくりと消えてゆく溜め息の靄から、上空に広がる茫洋とした世界へと視線を移動させた。  闇が、徐々に朱に支配されようとしていた。山際に、細い金糸のような線が引かれている。まばらな白雲は、そこにある二つの色によって、鮮やかに染め上げられていた。  俺は、その美しい眺めに眼を細める。  多分、今日も――  刹那。  突如として背部を駆け抜けた悪寒に、俺は前方へと跳躍した。そして、着地と同時に腰に携えていた刀の柄を握り、躊躇なく抜刀すると、振り返りざまに空間を薙ぐ。  風を切る音と鋼同士が打ち合う甲高い音が静謐を破って響き渡り、視界の中に飛び退る一つの影が映った。  俺は振り切った刀を眼前に構え、状態を浅く沈めると、その姿を視認する。  背後から奇襲をかけてきた《それ》は、シルエットこそ人間そのもの――しかし、直視してみると流石に嫌悪しざるを得ない相貌を成していた。  身長二メートルはあろうかという巨躯が放つ凄まじいまでの鬼気は、その筋骨隆々の肉体のものだ。はち切れんばかりに盛り上がった腕や脚の筋肉は俺の胴回りほどの太さがあり、そこには黒く変色した太い血管が網状に張り巡らされている。その見事な逆三角形の身体の上から俺を睥睨する真紅の双眸は、半ば狂気にも似た光を湛えて炯々と輝いていた。それは、数日間何も口にしていなかった野獣が、やっと獲物を見つけた時の歓喜の表情に、酷似している。  否、このような異形の生命体でも結局、生物は生物。事実上、空腹という可能性は十分にあるだろう。それにもし本当にそうなのであれば、この苦悩にくしゃりと歪んだような表情も頷ける。  まぁ、それもコイツ――ゴブリンに、満腹や空腹といった概念が存在すれば、の話だが。  俺は、数メートル程の空間を隔てて対峙したゴブリンへの突撃の隙を窺うように全身の神経を研ぎ澄ませる。そして、相手からの攻撃の可能性も考慮して刀の柄を握る掌に膂力を込めた。  ――冷風が足下の雑草の上を滑り、それが奏でた葉擦れの音が奴の神経の糸に僅かな綻びを生じさせた刹那。  俺の脚は、ゴブリンに向けて疾駆していた。  間合いの消失に応じて、理性が本能に侵されていく感覚に襲われる。冬の冷気が髪を嬲り、耳朶に風音を伝えてきた。  ゴブリンが意識を俺に転換させる寸前、俺と奴との間を隔てる空間は、零に等しくなった。  俺は、完全に間合いに突入したゴブリンの頸動脈めがけて刀を横薙ぎに一閃させる。渾身の膂力を込めた銀の弧は、東から僅かに顔を覗かせた燃えるような太陽を映して朱い軌跡を残した。  鋭い風切り音を伴って放たれた斬撃は、咄嗟に構えられたゴブリンの両腕を抉る。浅い。パッと飛沫した鮮血が頬に紅い斑点をつけるのにも無頓着に、俺は素早く腕の捻りを利用して、切っ先を下方からの斬撃に転換した。一方のゴブリンは、腕を抉られながらも果敢に左手から豪速の蹴りを放ってくる。だがそれよりも先に突き上げていた刃が、その脚を切断する。するとゴブリンは、流石に痛かったのか声にならない悲鳴を漏らすと、その滑らかな切断面からどす黒い血を吐き出しつつたたらを踏んだ。  俺はそこに間隙を見いだし、すかさず肉薄。そのまま、振り上げたままの血が滴る刀を、袈裟斬りに振り下ろした。  上空の美しい朱を映した弧は、持ち上げられていたゴブリンの右腕をずっぱりと断ちきって、再び奴に悲鳴を上げさせる。そして、開花した巨大な血の華を引き裂いて、切っ先は深々と肩口に潜り込んだ。  肉を断つ音と地面で跳ねる鮮血が奏でた水音が、不協和音と化して鼓膜を叩く。ゴブリンの口腔から溢れ出した血塊が、その鮮血と共に地面に落下すると、刃がついに奴の体躯を両断した。  ゴブリンが、断末魔の絶叫を迸らせる。耳朶を聾するほどの大音量である。人ならざる者の絶叫は、黎明の静けさにはあまりにも異質な響きを宿して殷々とこだました。  数秒後、その声が途切れると共に舞い上がっていた奴の右腕がその背後にぼとり、と落下する。継いで、切り離された上半身が重い地響きを伴って転がった。そして最後に、右脚と上半身を失ったその下半身が、噴出した鮮血によってできた血だまりの中に倒れ込んだ。  衝撃で跳ねた紅の滴が足下を汚す光景と、再び周囲を包んだ静けさに、俺の中の本能が 支配力を失っていく。突如、途切れた緊張の糸の所為で、激しい虚脱感と疲労感が全身を苛む。俺は脱力したように、刀を地面に突き立てて肩で荒い息をついた。 「ハァ……ハァ……」  闘いの終焉を告げるかの様に、天に朱が広がる。  俺は自嘲の笑みに頬を歪めた。  理性の激しい叱責を感じ、慚愧と悔恨を込めて思考を展開する。  ――また、無駄な殺生を繰り返してしまった。  重ね、重ね続ける罪は、自らの糧になっているのだろうか――と。  本能という恐怖から目をそらすように、俺は今やただの肉塊となったゴブリンの屍に視線を馳せる。そして俺は、その血だまりから立ち上る湯気を一瞥したことで生まれた一筋の思いにすがりつくことにした。  多分、今日も冷えるんだろうな。  何の価値も生み出しはしない、弱者の如き現実からの逃避。  仕方がない、と呟く俺の姿を朱く染め上げるのは、燃えさかるような暁の空に昇った、紅い太陽だった。