蒼の泉
序章
【皓坂 時雨:執筆】
美しい、満月だった。
茫洋とした漆黒の世界の中心――まばらに鏤められた星斗の煌めきの中にくっきりと浮かび上がる、皓い月。その月光が、闇に沈んだ下界の景色を朧気に映し出している。そこに湛えられている厳粛なまでの静謐さは、いかなる狂気と煩悩をはらんだ獣の意志でさえ無に還してしまうほどの、優しさをも内包していた。
いつからそこに居たのだろうか。
二つの影は、その存在自体が周囲と一体化していると錯覚してしまいそうになる程に微動だにせず、佇んでいる。その足下で揺らぐ蒼い水面が反射した青白い月光に映し出されるその人影は、いずれも闇に溶ける漆黒のローブとマントを着用していて、すっぽりと被ったフードの下から覗く唇は、何の感情も宿していなかった。
と――不意に二人のうち、背丈が小さい方の影が、それまでずっと水面へ下ろしていた視線を上空の満月へと移す。だが、厚手のフードが目元までを完全に覆ってしまっている為、そこに込められた感情は微塵も窺い知ることができない。一拍を置いた後、薄いその唇が、震えるように吐息を紡ぎ出した。
木々の間隙を吹き抜ける夜風が二つの影をはためかせ、蒼く住んだ湖面を滑って波紋を生じさせる。周囲を疾駆する葉擦れの音は、まるで何者かが辺りを憚って囁きを送っているかのようだ。
そして、暫しの沈黙に夜風の残滓が消滅すると、小さい方の影の唇から、言葉が流れ出た。
「綺麗な月だ。泉の色がよく見えるよ」
若い男の声で紡がれたその言葉は、再来した微風に連れ去られてゆく。その声量は、すぐ隣に佇む巨大な影に届いたのかさえ怪しいほど、小さい。だが、それを確かめるでもなく若い男の影は言葉を連ねていった。
「前にここを訪れたのが三百年……いや、三百五十年前か。ここはいつまで経っても蒼いままなんだな」
「あぁ」
若い男の声に、ゆっくりとした口調で巨躯の影が応じた。深みのある、図太い声だ。そこには、少なからず苦渋のような色が滲んでいたが、それは若い男の唇に皮肉げな笑みを刻んで消えていく。
彼らの眼前に広がる蒼い湖面に、何かが跳ねるような水音が生まれた。
「――ふぅ」
これで述懐は終わりだ、とでも言いたげな溜め息が、若い男の唇から漏れる。その唇からは、もう先刻の笑みの片鱗は剥がれ落ち、再び無表情が満たされていた。
「やるのか?」
次に吐き出された言葉は、あまりに複雑で漠然とした感情に支配されていた。憂慮、疑念、悔恨――。難解な数式の如く解き明かされることを拒むその重々しい響きは、巨躯の唇を鮮烈なまでの苦しみに歪めさせた。
だが、その返答に逡巡を与える事は敵わなかったようだ。
「――無論だ」
鋼鉄の意志を漲らせた言葉は、そのきっかけを果たしたのだろうか。
その語尾が消えるのとほぼ同時に、二人の両腕が蒼い水面へと向けられる。そして、些かの間もあけずに、その翳した掌から鋭い閃光が迸った。
蒼く光る水面へ、四筋の輝きが突き刺さる。
刹那、音は、無い。
白光が衝突地点で炸裂した。
それは、いかなる輝きにも勝る、《輝き》――
――叫びが、白い世界にこだました。